朗読と音眠れない夜へ、音の魔法を。「朗読と音」

日本語の本来の使い方と必要性

2020/11/22

年末に近づいた日にふと前職の同僚達と飲もうと思い、以前飲んだ時に作成したFacebookのグループにお誘いのメッセージを投げてみました。 お誘いのメッセージといっても独り言に近い形で「来週、下北あたりでどうでしょう」と呟いてみました。

このグループに投げるのは半年以上ぶり、前回の飲み会も下北で行ったので、何気なく投げてみました。 すると、早速「はい」と返事が来て、1時間のうちにそれぞれから返事がありました。

返事だけのやつもいれば、都合の日を返信してくる奴もいました。この時に自分の中ではそれぞれの面々と繋がっていることを実感することができました。 そして、それと同時に、これが本来の日本語の使い方なんだなとも感じました。

メタ情報の共有が前提とされた言語

なぜ、その様に感じたのでしょう。何の脈略もなく、そして目的や具体的な内容もないつぶやきに対して、発信者の思う100%の返答が返ってくるのは非常に面白いと思いました。

当然、このつぶやきを第三者が読んだだけでは全く理解できず、1度下北で飲んだことがあり、次回を約束したと言う前提があるからこそ通じる会話なんだと思います。

多くの方がこんな経験はされていると思います。いつも会っている仲間や、同級生など関係が親しければ親しいほど、その会話は簡素でありながら情報量が詰まった物になると思います。

さらに、面白いのは、返事に具体的な内容を誰一人として聞いてこなかったことです。 多分、それほど親しくない関係や少し鈍い人がいると、「何?飲み会?」と返答が返ってくるかもしれません。 しかし、その時は誰一人そんな話が挙がらなかったのです。つまりこれはそのグループ間でメタ情報がすでに共有化されており、それ以上の情報を伝えなくても理解し合える状態だったからだと思います。

日本語の持つ簡略性

日本語はこのようなすでに共有されている情報を引き出すのに適した言語なのではないかと思いました。 俳句などはまさにその簡略性を突き詰めた文化だと思います。

日本語は1つの状況を伝えるのに多くの言い回しが存在します。そして、それぞれの言い回しの微妙な違いによって感情の微妙な変化を伝えるために発展したんだと感じました。

今回の件を例にとってもグループの状況や各個人の性格、それぞれとの繋がりを含めて発信されており、さらに受けても発信者のタイミングや内容、言い回しを無意識に考慮して返答されていたと思います。

空気が読めない状況

ではもし、飲み会の誘いの時に「何?飲み会?」と返ってきたらどうなるでしょう。多分、メンバーの中には「こいつ空気が読めないやつだな」と内心思うかもしれません。これこそが日本語の持っている闇の部分だと言えます。

前提としてのメタ認知をすでに共有していること、それが日本語を使う上で非常に重要な要素なんだと感じたのです。そこで少しでも違う認識の奴がいると非常に言葉が使いにくくなるのです。 前提のメタ認知を育むためにはどうすれば良いのでしょう。それが日本を閉鎖的にする要因でもあると言えます。

文化や価値観を共有するためにはできるだけ、新しい価値観を排除して、今までそのメンバーで作ってきた物を大切にすることが重視されます。その規模が大きくなればなるほど、外からの価値観が入ってくるリスクが大きくなります。なので、より強固に守る必要が出てくるわけです。

私が感じたのはこの日本語を使用するリスクを強く認識できたことです。 多分、今後この言語を使用する上でできるだけ多くの人がこの言語の特徴を認識して、閉鎖的になるリスクを理解し、極力オープンに意識する必要があるのかもしれません。